コウベガタリ - 神戸語り -

『~神戸開港と南京町の華僑~』

2009年11月25日

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 ( なつかしの神戸より )

 

神戸港の開港後、居留地に住むことが出来たのは、日本と友好条約を結んだ、アメリカ、オランダ、イギリス、フランス、ロシア、などに限られていた。条約を結んでいなかった他の国は居留地を囲むように、東は生田川から西は宇治川まで北は山麓から南は海岸までに住居を構えが、増え続ける外国人人口に対し居留地は増築しなかったため、見晴らしの良い山手には欧米人たちが多数住み、異人館街を形成した。当時の中国の人々は、居留地から外れた場所に住居を構え、それが華人商店街であり南京町である。

 

神戸は歴史的に特に中国と密接な関係を持ち続けた。近代以降の双方の架け橋役が華僑(本国以外で暮らす中国人の総称)である。 開港とともに輸入されたのが、「マッチ」でしたが、舶来品は非常に高価だった。明治十年前後から神戸で国産品の製造が始まり、早くも中国向けの輸出を開始し、マッチ産業は飛躍的に発展していった。マッチ産業は、技術導入を国産化した日本最初の輸出産業、輸入に頼らずに外貨を獲得できる「近代型工業」という意味で歴史的に意義がある。 しかし、長い鎖国政策の直後では海外の取引先もノウハウもなかった。そこで、全世界にネットワークを広げ、貿易の知識、情報、そして資金も豊富だった、「華僑商人」に頼った。華僑の商才の威力を見せつけ、中国や東南アジア向けの「マッチ」は華商の独壇場になった。第一次世界大戦が始まると欧米からの輸出が事実上ストップすると、日本の「マッチ」は、アジア市場を完全に制覇しただけでなく、エジプト、ロシア、ヨーロッパにまで輸出先を伸ばした。さらに、華僑は、莫大な資本を背景にマッチ業者に資金を貸し付け、生産拡大の手助けをしたのである。零細で、燃えやすい危険物を扱うマッチ業者に銀行は資金を貸さなかった。華僑から資金の融資を受けたことが、マッチ工業の発展に役立ったことは間違いない。やがて、日本人商店や日本商社が直接外国に輸出するようになるが、華僑の果たした役割が大きかった。 「マッチ工業」はやがて「ゴム工業」にすがたを変え、今の「ケミカル工業」になる。

 

商才に長けた華僑の中でも、呉錦堂(ごきんどう)はマッチ輸出や投機で巨万の利益を得た後、晩年は社会事業や中国人子弟の教育に精力をついやし尊敬を集めた。孫文の中国革命運動への支援でも有名で、舞子浜の呉の別荘は孫文ゆかりの地として知られており、今は「孫文記念館」(移情閣)となり神戸の街に自然にとけこんでいる。                                                         

(「孫文」・・・中国辛亥革命の中心人物。神戸を拠点に華僑、日本人、留学生に「三民主義」を説いた。)

 

現在、多くの観光客が北野町で「異人館」を見学し、ハンター坂、もしくは、トアーロード、北野坂を下り、「旧外人居l留地」で買い物をし、「南京町」で中華料理を食べる。 ガイドブックに、なぜ神戸の街がこのような色分けに成ったか説明が載ってないと思うが、ふと頭の中で神戸の町の地図を浮かべると、北野、居留地、南京町、それと日本人の家、それが混在して居住している場所であると再認識する。しかし、別に外国人と隣り合わせですんでいても、言葉や習慣の違いはあっても、さほど違和感がないのは、やっぱり、神戸の昔からの遺伝子・DNAが神戸っ子に深く根付いているせいなのかも知れない。 言葉のわからない外国の人より、意味の解らない事を言ってる日本人の方が、隣人にはなりたくないものだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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