コウベガタリ - 神戸語り -

『~海舟と龍馬の夢~』

2009年12月14日

IMG_0171.JPG

( 海軍操錬所の碑)

 

京町筋を南に下がり、国道二号線を渡ると橋の上に「史跡旧海軍操錬所後」と書かれたイカリ型の記念碑がある。 勝海舟が開いた海軍操錬所があった所である。勝海舟は咸臨丸(あんりんまる)の艦長としれ初めて太平洋を横断(1860年)したり、 幕臣として西郷隆盛と会見して江戸城無血介開城を交渉した有名な人物です。 

 

横浜港などの開港後、外国貿易が進展する中で物価が高騰する経済・流通が混乱して、攘夷(じょうい)気運が高って行く。 外国人殺傷事件も続発した。その中で生麦事件(1862年)が起きた。 「イギリス艦隊が大阪湾に来航するのではないか。」との風説も広まり、大阪湾防備のために西宮、湊川、和田岬などに砲台を築くことに成った。十四代将軍家茂(いえもち)が軍艦で大阪から兵庫に行った時に随行した勝海舟は、神戸村に海軍操錬所と設置することを提案した。家茂は摂海防備の重要性と認識し、1864年に完成した。 海軍操錬所は海軍兵学校と海軍機関学校を兼ねており、勝海舟は軍艦奉行をしてこれを主宰し、摂海警衛などを幕府より委任された。

 

坂本龍馬は江戸で勝海舟と対談し、その世界観に心酔し入門する。その後、坂本龍馬は勝海舟の手足となって奔走することになる。 海軍操錬所の最大の特徴は幕臣ではなくとも海軍への志さえがあれば、入学できた。とくに勝と龍馬は、惜しげもなく命をすてている、尊攘の志士(そんじょうのしし)をなんとか救うために、操錬所に入所させ、海防の任に当たらせた。 その結果、土佐藩士の坂本龍馬をはじめ、藩を超えて入所して来た。

 

しかし、池田屋事件、禁門の変などに塾生が関係していることが分かり、勝は江戸に召還され、海軍操錬所も1865年廃止される。 その後、坂本龍馬は薩長同盟を実現し大政奉還などの国家構想論を展開し、後藤象二郎などによって実現したあと、京都で暗殺される。  海軍操錬所の開所期間は短かったが、坂本龍馬や陸奥宗光など偉人をだし、日本の歴史に大きな足跡を残した。 その後、海軍操錬所の建物はイギリスの領事館となり、移築して小学校の校舎となって行った。

 

来年のNHKの大河ドラマの主人公が「坂本龍馬」ですが、 日本の偉人でも常にトップにランキングされている二人が、神戸に関係しているのは、嬉しいかぎりでもあり、また当然とも思える。  坂本龍馬は日本人のヒーローであるが、わたしの感想は少し違う。 坂本龍馬に、これからの世界論を教えた人物がいるはずである。もちろん、勝海舟もそうであるが、当の勝海舟に、「これから世界は・・・・・。」と情報を与えた人物がいるはずである。以前も書いたが、情報は決まった人しか持っていない。(「神戸語り」の『~行きつけの店には情報がいっぱいかも?~』) とくに、不安定な時代には、最新情報や海外情報は貴重で、ある一部の人しか持っていなかったと思う。 もしも、勝や龍馬が自分で思いついたのなら、彼らは、すでにその時代にインターネットで瞬時に情報を得る事が出来ていたに違いない、そして、情報から知恵を出して、明治を言う時代の扉を開けたに違いない。でないと、時間の速度があまりにも速く動きすぎていると思う。鎖国政策廃止から明治の文明開化の時代への変化を既に予測ていしたのだろうか?。 それとも、偉人とは私のような者には、考えもつかない事を、やってしまうものであろうか。 是非、龍馬のファンの方でもそうで無い方も、イカリの記念碑を一度見学に行ってみてください。 偉人たちの功績と共に神戸の散歩をしてみてください。

 

 

コメントする