コウベガタリ - 神戸語り -

『~お金ってなに?~』

2009年12月 2日

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(神戸外人墓地にて)

 

「神戸語り」では、神戸の歴史、酒の話、世界の逸話などと共に「経済の話」も語って行こうと思っています。最近、テレビ、新聞の経済ニュースで、円高やデフレと言った話題が毎日報道されていますが、誰もが何となくしか解っていないのが金融のシステムだと思います。まずは難しい事はひとまず置いて、毎日使っている物に焦点を合わせます。まずは、「お金とは何か?」を説明したいと思います。

 

実は、お金の定義というものは、ハッキリとしていません。言えることは、、「交換の媒介物」、「価値の尺度」、「価値の貯蔵手段」、がお金の機能と考えられます。 お金の存在しない時代、人々は自給自足をしていました。ただ、自給自足と言うのは、自分で生活に必要なものを全部つくりださなければいけないので、非常に重労働であったし非効率でした。自給自足経済では、その地域で取れないものたあったし、取れる物自体が不足してしまう場合もあるので、物々交換の必要性が生まれてきます。この物々交換と言うのは、交換方法としては効率がよくありません。例えば、海で魚を毎日捕っている人がいるとします。「たまにはお肉でも食べたいな」と思い、牧場に行き「魚とお肉を交換してください」と頼みますが、牧場の人が魚好きなら問題ありませんが、もしも魚嫌いだったら交換が成立しません。仕方なくお肉は諦めて、次は野菜と交換を目指して畑に行き「魚と野菜を交換して下さい」と頼んでも、「魚は好きだけど、この前にたくさん交換して今は魚は食べたくない」と言われても交換が成立しません。しかたなく、物々交換を諦めて自分で魚を食べることにしました。しかし、家に帰ってみると魚が腐っていたって事が起きる可能性があります。このように物々交換はお互いの必要性が一致しないとスムーズに交換が行えない不便さがあります。

 

そこで発明されたのが、交換の媒介物の「お金」です。 お金とは何かと言うと、それを持ってくれば「相当分の何かと交換します。」という取り決めだったのです。つまり、突き詰めて言えば、お金の本質は「情報」です。お金が発明されたことにより、いつでもでこでも誰とでも何にでも交換が出来るようになった。これは非常に便利である。 また、人には好き嫌いや得手不得手があります。例えば、絵を描くのが好きで、非常に上手に描く人がいたとします。しかし、いくら絵が上手でも、絵と食べ物を交換する事はだぶん難しく、やはり自分で必要とするものは自分でつくなければなりません。そうすると絵を描く時間も無くなってしまいます。ところが、お金が媒介となることで、好きな絵を描いて、それを売り、生活に必要なものを手に入れることが可能になります。つまり、お金が人と人を結ぶ道具になり、人は初めて「自分の好きなことをしながら生きて行くことができる。」と言う自己実現の可能性がうまれます。 こうして交換にお金が使われることによって専門性が高まり、効率性が向上して、より高度は技術が開発されて、文明が発達していくことになりました。

 

お金の発達段階は世界各地によって様々ですが、初めにお金を使われたのは、お米や小麦、塩、油、布、皮、牛、羊など、誰もが生活していくうえで必要とするものでした。 誰もが必要とするから、交換の媒介物として「お金」が成立したわけです。 その当時に使われたお金の代表は、貝殻のお金でした。 なぜ貝殻がお金として使われたかと言えば、それはその貴重性でした。非常に珍しく、人気があった。だから誰もが欲しいがった。誰もが欲しがるから、交換の媒介物として成立した。しかし、貴重性とは十分な数がないと言うことです。例えば交換する物がたくさんあっても、その媒介物が少なければ、じうぶんな交換がおこなえなくなり、数が少ない交換の媒介物を巡って競争が促進されることになります。 やがて、鉱山の発掘と共に、貝殻の役目は終わって行きます。

 

競争が起こると言うことは、いまのニュースでもよく言われているが。生活に必要な物が貴重なり媒介物(お金)がたくさんいるのか、反対に生活に必要な物が安く手に入るようになり媒介物(お金)の価値が低くなってしまっているのか、ほかにまだ、媒介物(お金)には、特質があるのか?やはり「お金」はただ物では無いようだ。この前に「ルイブログ」の方に書いたが、ボンマリのお客さんの畑で採れた野菜をたくさんいただいた。今度、ボンマリに飲みに来てくれたら「ワイン」をご馳走する予定にしているが、これも一種の物々交換かもしれない。やはりその時は媒介物(お金)を見ることは無いだろう。

 

 

 

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